父の葬儀
私事ですが、9月6日に最愛の父が亡くなりました。
弔電や御香典などを頂きました生徒さん、温かい言葉をかけてくださった方々に心より感謝申し訳あげます。
Facebookにも書きましたが、母が車の運転ができなかったことから、私のピアノのレッスンやコンクールの付き添いは父でした。レッスンは何時間も遅れて帰りが深夜になることも多々ありましたが、いつも自分の仕事を切り上げてレッスンに連れて行ってくれました。関東での卒業演奏会や私のリサイタルなどにも父は全て夜行バスで来てくれ、私のことをとても応援してくれていました。
私が指導者になってからも発表会には必ず顔を出して生徒達に声かけしていましたし、生徒がコンクールで優勝したりすればとても喜んでくれました。
私が10歳の頃、父は自分の夢を諦め家の近所の会社に勤めるのですが、それが母の代わりに私のピアノの送り迎えをするためだったと喪主である弟の挨拶で初めて知り、涙が溢れました。
戦時下で貧しかった父は身体が弱く本当に苦労人でした。知的好奇心は旺盛で書道もお茶もお花も免許をとるほどでした。家事も畑仕事も何をしても器用にこなし、本当の意味で賢い人でした。私のレッスン室の本棚は40年前に父が作ってくれたもので、前の家の壁に嵌め込んでしまった物を大工さんに無理言って新居にも移しました。
父は70歳過ぎてから剪定師の資格をとりに1年間緑化センターにも通いました。趣味で切り絵もしており、それはそれは素晴らしい出来でした。
真面目で勤勉で誰に対しても穏やかで優しく、誠実で欲のない人格者でした。人の悪口を言わず、気の強い私にいつも「周りに感謝しなさい」と言っていました。
無理難題を言われても親身になって一緒に考えてくれる人で、後に町会議員となり地域の人達からとても慕われていました。
議員を辞めてからは町のシルバー協会の会長、愛知県のシルバー協会の議長にもなりましたが、任期途中で年々悪くなっていった肺の病で倒れました。
その後は1年9ヶ月も酸素吸入器をつけ寝たきりとなりましたが、ベッドの上でも写経をしたり、自伝や日記を書いたりしていました。肺が苦しかったとは思いますが、亡くなる3日前にも「ボールペンが出なくなったから持ってきてほしい」と言われたほどでした。最期まで頭はしっかりしていて、まだまだやりたいことはたくさんあっただろうなと思いました。
父が危篤になった時、父の思い出の曲である「乙女の祈り」を慌てて録音して病院へ持って行きました。「耳は最後まで聴こえる」と言いますが、父には届いていたでしょうか。葬儀では、私と夕雛先生がピアノを弾きました。夕雛先生は「じいちゃんは仏様になった」と言います。既に悟りを開いているようなそんな人でした。
本当に大好きな父でした。


